俳句の作り方 紫雲英の俳句
余念なく紫雲英を摘むとひとは見む 大島民郎おおしまたみろう
よねんなく げんげをつむと ひとはみん
紫雲英が春の季語。
「マメ科の越年草。
蓮華草れんげそうの別名。
かつては緑肥や牧草として広く栽培された。
晩春、紅紫のじゅうたんを敷き詰めたように一面に咲くさまは
ノスタルジックでもある。」
(よくわかる俳句歳時記 石寒太編著)
掲句の説明の前に「見る」の文法を少し解説します。
マ行上一段活用、他動詞。
未然形 み
連用形 み
終止形 みる
連体形 みる
已然形 みれ
命令形 みよ
この句では連用形です。
さて「見む」ですが
「む」は助動詞、四段型。
未然形 なし
連用形 なし
終止形 む
連体形 む
已然形 め
命令形 なし
この句では終止形で、意味は推量です。
つまり「見む」は見るだろうとなります。
余念なく紫雲英を摘むとひとは見む
句意を申し上げます。
ほかの事を考えずに熱中して紫雲英を摘んでいると人は見るだろう。
人は作者が一心に紫雲英つみをしていると見ています。
でも事実は違います。
では、作者は実際に何をしていたのでしょうか?
ひとところにかがんだままなのです。
動かないのです。
絵を描く作者は紫雲英を観察していたのでしょうか?
違います。
それでは面白くありません。
作者は憂鬱だったのです。
私はそのように想像します。
気晴らしに紫雲英野にやってきても沈んだ気持ちは晴れません。
じっと目の焦点は紫雲英に当てていますが、実は見ていません。
ほかの事を考えていたのです。
この憂鬱はいったいいつまで続くのか?
どうすれば鬱から脱出できるのか?
もっぱら自身の心に意識が向かっていたのです。
そしてそんな自分を客観視して俳句が生まれました。
余念なく紫雲英を摘むとひとは見む
大島民郎おおしまたみろうについて・・・。
1921年生まれ、2007年没。
東京都出身。
高原俳句を仲間と共に確立した。
「見る」の文法説明すっきりと理解出来ました。文法の苦手な私にはより有難いです。
大島民郎氏の句意は伊庭さんの解釈が全てだと思います。
私も一読して、作者は内在している憂鬱を句に立ち上げたと思いました。