俳句の作り方 野分の俳句
死ねば野分生きてゐしかば争へり 加藤楸邨かとうしゅうそん
しねばのわき いきていしかば あらそえり
野分が秋の季語。
野分とは秋の暴風のこと。
「『野の草木を吹き分くる風』からきた雅語で風雅の伝統を負う貴重な季語」
(よくわかる俳句歳時記 石寒太編著)
句意を申し上げます。
戦争で死んだ人々の魂は、荒々しい野分となって吹きすさんでいる。
生き残った者たちも安穏ではない。
争ったのだ。
太平洋戦争後まもなくの日本では戦犯はもとより一般国民の間でも
戦争責任の追及が始まりました。
俳人とて例外ではなく、かつての仲間に信頼の溝ができました。
それは中村草田男なかむらくさたお からの非難の手紙です。
軍部要人が加藤楸邨かとうしゅうそん の主宰する『寒雷』に属していたので
便宜を図ってもらったのではないかという指弾。
それと楸邨の俳句には「眼」がないという辛辣な酷評。
その応えが掲句の 死ねば野分いきてゐしかば争へり だったのです。
人間というのはなんと業の深い生き物なんだろう。
楸邨は嘆きました。
「戦死すれば戦場で野ざらしにされることも多々ある。
一方で幸いに戦死を免れて母国に戻っても平和を取り戻せば
今度は互いに批判しあうことになる。」
(高橋透水の『俳句ワールド』より)
死ねば野分いきてゐしかば争へり
加藤楸邨かとうしゅうそん について・・・。
生没年1905から1993。
初期は『馬酔木』に拠る。
しかし困窮する生活に『馬酔木』の抒情的な作風が合わなくなりました。
人間の生活や自己の内面を深く見つめた「人間探究派」として
中村草田男と共に活躍しました。
これはあくまで私個人の私見ですが、中村草田男氏の加藤楸邨に対する非難の手紙も大人気無いし、加藤楸邨氏のその非難に答えるような句も
私には大人気ないと思いました。
何故なら、元々人間の行動なり思考はその人の心の奥底に立ち入らなければ完璧に理解する事は不可能だからです。
人間は神では無いしそんな事は不可能です。
人間の業も闇も他の人間が正確に理解する事など到底無理です。
私なら、非難の手紙をもらっても無視しますし、まして非難に対する句を作りません。